隣にいる人を
鎌倉へ車で行くときは都内を経由していくか、圏央道を通って海老名の方から行くかの二択となる。だいたい都内経由は渋滞しているため、到着時間が30分ほど長くて料金は800円ほど高い圏央道ルートを選択する。800円と30分を自分の中で天秤にかけているのだろうか。時間をお金で買うようになったら大人なのだろうか。お金を時間で買っているのがほとんどの大人の実態でもある。海老名、厚木の西側の山脈は雪化粧で綺麗だった。道中はだいたいPodcastを聞くか、YouTubeを聞くかとなるわけだが、今日は「メタバースえとせとら」をナイスチョイス。そこで自分の中でちょっとすっきりする話があったので記録しておきたい。
仕事で会社のフィロソフィーをつくることが多い。年に10社くらいのフィロソフィーづくりに関わらせていただいていると思う。経営者の想いをヒアリングしてコピーライティングする場合と、もう少し大きな規模の会社では社員でプロジェクトチームをつくりディスカッションの上ボトムアップで社内に提案していく。そのプロセスにもとても価値があり、企業のフィロソフィー、理念、ビジョン・ミッション・バリューを策定することはいいことだと思う。なぜなら集団が共同幻想を追いかけるには何らかのテキストが必要であるし、経営者のイメージを言葉や絵に変換して共有することからしか事業は起こらないし、本気で解像度高く思い描いたことは時間をかけて現実に変わっていくと考えているからだ。しかしながら、そういった言葉は往々にして抽象的で大きくて遠い言葉になる。性質上そういうものだと思う。そういう社会との約束のような言葉を発するときに、隣にいる人のことを忘れてはならない。その会社が誰のお陰で存在しているかということ。原料をどこから仕入れてきて、誰が運んできてくれて、その商品を誰が買ってくれているかというようなこと。いくら社会との約束を掲げても、商品やサービスをつくるのに必要なものを作っている人がいなくなったり、誰も買ってくれなくなれば元も子もない。大きな約束をする前に、隣にいる人を幸せにすることが順番としては筋なはずである(いわずもがなまずは社員)。ということで、フィロソフィーはそれはそれで必要だとして、ステークホルダーへのプロミスというかステートメントのようなものも言語化しておくのはどうだろうか。それはとてもリアリティがある言葉になる気がする。次、フィロソフィーづくりに関わるプロジェクトがあれば、そういったことを提案してみたい。