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言葉にしない方がいいもの

TAKEHIKO YANASE

今週は高松に来ている。昨年に引き続き、2度目の訪問。何か仕事や用事があるわけではないが、いわゆるワーケーションというものでしょうか。家族を羽田空港に送る足で、自分は高松にやってきてホテルやカフェで仕事をしている。今回も瓦町エリアに宿を取り、徒歩圏内のお店でご飯を食べ、少し本屋「ルヌガンガ」に立ち寄ったりしながら、原稿を書いている。自分にとっては毎年ルーティンにしたい贅沢な無駄であり、実際仕事も捗る。高松で何か仕事やプロジェクトをしたいと思ってしまうのは、少々ワーカホリックなのだろうか。

今日は富川岳と急ピッチで作っているZINE「僕らの先月」の印刷打ち合わせで、中野活版印刷店の中野さんお話した。まだ1ページしか原稿ができていないが、サイズ、ページ数、紙、紐など詳細までおおよそ仕様が決まった。最終形態を作れる人と直接話して、スピード感を持って制作するのはいつも楽しい。心刷祭で限定販売するので、ぜひ足を運んでいただきたい。

先週取材してきたR大学の冊子の原稿を進める。その中でデザインとアートは本来不可分だったが、産業革命以降デザイン(思考)が課題解決に重宝され、偏重すら見られる。もっとデザインにアートを取り入れるべきだという話があった。デザインとアートの定義については、尽きない話だが、目的を設定してそのために何かを行うか、自分の感じたことや真心を発露させて何かを行うかということとざっくり定義をしたとする。仕事というものはほぼほぼお客さんに価値提供するためにあるため、デザインとして扱われる。が、高松で訪れたいお店は、どうしてこうなったんだろうという一癖ある喫茶店だったりする。傾いた看板、色褪せたメニュー、積み上がった数年前の週刊誌。デザインの欠落。それがいい。が、残念ながら経済とは相性がよくないみたいだ。仕事をするにはスタバがいいが、エッセイ何かを読むにはそういった喫茶店がいい。人生にビジョンや目的を設定すれば、あらゆる時間はデザインに覆われ、◯◯パという尺度で測られる。夫婦は一緒に遊びたい人として始まるが、生活や育児、家計などの目的を強いられ、関係を結び直す必要に迫られたりもする。山口周氏の「役に立つより、意味がある」は、要するにデザインよりアートの時代の到来を予告する言葉とも捉えられ、いや、デザインよりアートではなく、デザインとアートを両立した、便利で楽しい日々をどう過ごせるかという問いなのかもしれない。デザインとアートを包括するのは「美意識」なのだろうか。包括する概念が現れたときに、それがデザインに飲み込まれないでいて欲しい。ときに言葉にしない方がいいものもあるのだろう。「まほろば」は見事にそれらを両立した店だと、豚汁を啜りながらしみじみ想う。